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戦没者を称えるな、ひたすら追悼せよ

戦没者を称え、感謝した瞬間に戦没者の政治利用が始まる

武道館

8月15日、先のアジア・太平洋戦争で、非業、無念の死を強いられた死者達を追悼する日である。

武道館で行われる政府主催の全国戦没者追悼式、そこでの首相、天皇の追悼の辞が毎年話題になる。2019(戦後74)年8月15日、新天皇の追悼の辞、いわゆる「お言葉」では、これまでと同様「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰返されぬことを」切に願うと述べられた。他方、安倍首相の追悼の辞では過去に対する反省、とりわけアジアに対する加害責任についての言及が一切なかった。安倍政権のこの姿勢は2012年の第2次時安倍政権成立以来の一貫した姿勢である(2006年の第1次安倍政権では、1995年の村山首相談話を踏まえ、反省と謝罪があった)。

各紙は、天皇と、安倍首相の追悼の辞の対比を[戦没者追悼「深い反省」を継ぐ戦後世代 首相、加害触れず](朝日新聞8月16日付け)、[陛下「深い反省」継承 首相、今年も「加害」触れず](毎日新聞同)等々、大きく報道している。1993年の細川内閣以来の、そして95年の村山内閣で確立され、その後の歴代政権が踏襲して来た、アジアに対する加害責任に言及しない安倍政権の歴史認識は許されない。本稿はそのことに言及しようとするものではない。ただ、2019年8月2日ベルリン発共同電が「ワルシャワ蜂起75周年で追悼 ナチス制圧、独外相許し乞う」という見出しで以下のように報じていたことだけを記しておきたい。

「第2次大戦末期の1944年、ポーランドの首都ワルシャワで市民がナチス・ドイツ軍の占領に対して起こした、『ワルシャワ蜂起』開始から75年を迎えた1日、市内では人々が犠牲者を追悼した。ドイツのマース外相も現地を訪れ、ドイツ側の行いに許しを乞うた。蜂起は60日余り続いたが、約20万人の犠牲者を出し、ドイツ軍に鎮圧された。報道によると、マース氏はこの日、ポーランドのチャプトウイッチ外相と市内のワルシャワ蜂起博物館を訪れた。『ドイツの名の下、ポーランドに対して行われたことを恥じている』と述べた。」(2019年8月2日共同配信)。加害の歴史に向き合い続けなければドイツという国は欧州では存在しえなかった。

死者達に対する賛美

私が安倍首相の追悼の辞に注目するのは、そこにはアジアに対する加害責任の欠如と並んで、もう一つ大きな過ちがあるからだ。それは、非業無念の死を強いられた死者達に対する賛美である。天皇の追悼の辞にはこれがない。

安倍首相の追悼の辞は云う「今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い犠牲の上に築かれたものであることを決して忘れることはありません。改めて衷心より、敬意と感謝の念を捧げます」と。

非業、無念の死を強いられた死者達。彼らの死がなければ、戦後の平和と繁栄がなかったのだろうか。この点に付、1995年8月15日の村山首相談話は、「敗戦後、日本はあの焼け野原から幾多の困難を乗り越え今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に私は心からの敬意を表します」と述べ、死者達への感謝は述べていない。

彼らは、死ぬことなく生きていれば、戦後の復興を担ったのではなかったか。彼らは何故死んだのか。

客観的には敗戦必至の情勢にもかかわらず、これに目をつむり、本土決戦を呼号し、戦争終結への努力をせず、多くの人々を死に至らしめた為政者の責任を不問にしてはならない。沖縄戦、広島、長崎への原爆投下は避けられなかったのか、中国東北部(満州)に居留民を放置して撤退した関東軍の責任はどうなのか。

非業無念の死を強いられた死者達に対してはひたすら追悼あるのみである。死者達を称えたり、死者達に感謝したりしてはならない。称え、感謝した瞬間に死者達の政治利用が始まり、死者たちを産み出した者の責任が曖昧にされる。

『美しい国へ』

安倍首相には、自民党の野党時代に書いた『美しい国へ』(文春新書2006年、後に『新しい国へ』と改題)という書がある。「自信とと誇りの持てる日本へ」という帯も付された同書にはこう書かれている。

「今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命の上に成り立っている。だが戦後生まれのわたしたちは彼らにどうむきあってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。」(同書107~108頁)

私たちは、政治家に、国民に向かって「自分の命をなげうってでも守らなければならない価値がある」という言葉を吐かせない、そういう社会を目指して、戦後の再出発をしたのではなかったか。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定」」(憲法前文) し、戦後再出発をしたのではなかったか。 安倍晋三は前記引用文の前にはこうも書かれている。

「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、何と言って散っていったのだろうか。彼らの気持ちをつぎのように語る人は多い。《かれらは、この戦争に勝てば、日本は、平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために ― それは父母であり、兄弟姉妹であり、友人であり、恋人であった。そしてその愛しきものたちが住まう、日本であり、郷土であった。かれらはそれを守るために出撃していったのだ》

わたしもそう思う。だが他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意思もあった。それを可能にするのが、大義に殉じることではなかったか。彼らは『公』の場で発する言葉と、『私』の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。」

技量も未熟のまま、時代遅れの飛行機に乗せられ、敵艦に近づく前に次々と撃ち落された彼らを大義に殉じたと美化するのか。彼ら若者こそが「日本という国の悠久の歴史」の担い手ではなかったのか。それをむざむざと殺してしまった醜悪な戦争指導者の責任を放置するのが「美しい国」なのか。
 特攻作戦を遂行した大西瀧次郎海軍中将は、ポツダム宣言受諾による降伏に最後まで反対し、「あと2000万人殺す覚悟でやれば、勝てなくても負けはしない」と外務大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長に迫ったという(東郷茂徳回想録『時代の一面』中公文庫)。そんな彼を、「護国の英霊」として祀っているのが靖国神社だ。

靖国神社

8月15日、アジア・欧米諸国からの反発を恐れて靖國神社参拝を断念した安倍首相は、稲田朋美自民党総裁特別補佐を代理として同神社に玉串料を奉納し、「令和の新しい時代を迎え、改めて、我が国の平和と繁栄が祖国のために命を捧げたご英霊のお蔭であると感謝と敬意を表します」と託したという。

稲田朋美と云えば、安倍首相に取りたてられ、防衛相に任ぜられた2016年夏、それまで、毎年8月15日に欠かさず靖国神社参拝をしていたにも関わらず、防衛相として靖国神社参拝参拝をした場合の国際社会からの批判を怖れ、急遽アフリカ東部ジブチの海賊対処活動を視察するという日程を入れ、日本から逃亡してしまったことはまだ記憶に新しい。このことについて、2019年8月16日付け毎日新聞に興味深い記事があった。

2016年8月31日ジャーナリストの田原総一朗が首相官邸を訪れた際、安倍首相から「15日に稲田氏が靖國神社参拝しなかったことをどう思うか」と問われ、田原氏が「いことだ。参拝したら米国が文句を言ったはずだ」と答えたところ、安倍首相が「15日に稲田氏が日本にいたら靖國神社に行かないわけにはいかない。だから自分がジブチに行くように言った」と答えたという【注】。こんな姑息な手段を用いてまで、靖国神社参拝問題を糊塗しようとしている安倍首相、稲田元防衛大臣、彼らは、何故靖國神社参拝が、諸外国、とりわけ日本の侵略戦争に苦しんだアジアの人々に許されないのかということを何故考えないのだろうか

巷間、韓国、中国らからの靖國神社参拝批判に対して、戦死者・戦没者に対する追悼はどこの国でもやっている、何故それが、批判されるのかと反論がなされることがある。しかし、これは参拝批判論を正しく認識せずしての感情的な反発に過ぎない、

毎年8月15日、韓国では光復節として日本の植民地支配からの解放を祝っている。前述したように、日本ではこの日、武道館で政府主催による戦没者追悼式が行われている。韓国、中国がこの追悼式を批判したことはない。それは、このような追悼はどこの国でもやっていることであり、何ら批判される類のものではないからである。すなわち、靖國神社参拝批判は、戦没者に対する追悼そのものを批判しているのではなく、靖國神社という場でそれが行われることを批判しているのである。

何故靖國と云う場が問題なのか。それは靖國神社が、日本の近・現代における戦争は全て正しい戦争であったとする「聖戦史観」に立脚しており、戦争の責任者である、A級戦犯らを合祀しているからである。

ではA級戦犯が分祀されれば問題はないのか。否である。A級戦犯の分祀では問題の解決とはならない。A級戦犯合祀そのものが問題なのではなく、A級戦犯合祀に象徴される靖國神社の「聖戦史観」にこそ問題があるからである。

聖戦史観

靖国神社発行の「やすくに大百科」は以下のように述べる。

「……日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには悲しいことですが、外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第1次世界大戦』、昭和になっては『満州事変』、『支那事変』そして『大東亜戦争(第2次世界大戦)』が起こりました。 戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです。」

このように「やすくに大百科」で述べられている歴史観は日本の近・現代史を丸ごと肯定しているが、これは国際社会で通用しない。

戦後の今なお、靖國神社が、世界で通用せず、また歴代の日本政府の公式見解にも反する先の戦争を正しい戦争であったとする聖戦史観に立つのは、同神社が追悼施設でなく顕彰施設だからである。間違った戦争での死者を「護国の英霊」として顕彰することはできない。だから靖國神社は、「聖戦史観」を絶対に放棄できない。放棄したら靖國神社でなくなってしまう。このことがアジアからの批判を呼ぶ1978年のA級戦犯の合祀に繋がり、また1975年を最後に昭和天皇参拝の取り止めの原因ともなった。但し、その後も勅使の派遣はなされている。これは憲法違反である。

靖国神社は1879(明治12)年、別格官幣社として設立された。官幣社は大社、中社、小社の三種があり、官幣大社は、出雲大社、諏訪大社など30社近くある。別格官幣社は、官幣中社、小社と同格であった。別格官幣社は1872(明治5)年、楠木正成を祭神とする湊川神社が最初の設立。次いで、靖国神社、北畠神社など、天皇に尽くした臣下を顕彰する神社として続々設立された。何れも祭神を褒め、称える顕彰を主目的とし追悼施設ではない。「靖國神社社憲」(1952年9月30日制定)前文は以下のように述べる。「本神社は明治天皇の思召しに基き、嘉永六年以降国事に殉ぜられた人々を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治二年六月二十九創立された神社である」

靖國神社が追悼施設でなく顕彰施設であることは靖國神社に併設されている遊就館の各展示を見れば一目瞭然である。展示室1には、大伴家持の歌「海ゆかば、みずくかばね、山ゆかば草むすかばね、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」が掲示されている。この歌は、戦時中、日本軍の「玉砕」などの報道の際に流されたこと、また信時潔が重苦しい曲を付けたことから鎮魂歌と誤解するむきもあるが、歌詞を見れば明らかなように、天皇のために死んだ兵士を褒め称える歌であることが分かる。

戦前、歴史も浅く、社格も決して高くはなかった靖国神社が、他の神社を凌駕する特別な地位を獲得し得たのは、陸、海軍省が所管し、天皇の軍隊の戦死者の魂全てを祀り、そこに、臣下に頭を下げることのない天皇が参拝してくれるとされたからである。

靖國神社は、天皇の参拝によって戦死という悲しみを、誇らしげなものへと変え、後に続け!と戦死者の予備軍を作り出すための宗教的軍事施設、すなわち戦争神社であった。

靖國神社は、「夢に出て来た父上に、死んで帰れと励まされ」(露営の歌)という恐ろしい時代を背景に戦争によって育った。

戦死者の魂独占の虚構と天皇参拝、これこそが靖國神社の生命線である。

戦後新憲法下、靖国神社は、他の神社、寺と同様、国家とは離れ、民間の単なる一宗教法人となった。靖国神社は、戦後も戦前と同様、特別な地位を占めるため、戦死者の魂独占の虚構の維持と天皇参拝の継続に腐心した。

国立の追悼施設を設けていない国も、これを助けた。靖国神社は、敗戦の年12月15日の占領軍総司令部(GHQ)による国家神道廃止指令に先立つ11月20日、天皇列席の下、臨時大招魂祭を行い、先の戦争の戦死者全ての御霊を招き寄せたとする。遺骨の有無は関係なし、誠に便利な教義である。しかし、それだけでは、個々の戦死者を特定できず祭神として合祀できない。合祀するためには国からの情報が不可欠だ。すなわち神社の核心を構成する祭神が国の関与なくしては決められないのが靖國神社なのである。

国は、戦傷病者・戦没者遺族等援護法を適用した全ての戦死者の名前を「祭神名票」として靖國神社に自動的に送付する。これを国は、「行政サービス」と弁明するが、国が、特定の宗教団体に特別な便宜を与えることを禁じた憲法第20条政教分離原則違反だ。

靖国神社は、戦死者、遺族の意向にはお構いなく「護国の英霊」として合祀する。先の戦争は正しい戦争であったとする歴史観に立つから、かって、植民地下にあった韓国人戦死者についても創氏改名の日本名で「護国の英霊」として合祀する。

韓国人、台湾人の戦死者合祀は合計で4万9千人、そのほとんどが、戦後14年を経た1954年になってからである。創氏改名の日本名での合祀であるから、靖國神社では、戦後もなお、植民地支配が続いている(南相九東北アジア歴史研究財団研究員)。

靖国神社は、家族からの合祀取り消し要求には絶対に応じない。靖國神社は、その理由として同神社の「教義」を挙げるが、それは口実に過ぎない。靖國神社が合祀の取消に応じないのは、取消に応ずると、靖國神社の生命線である戦死者の魂独占の虚構が崩れるからだ。本来、追悼とは、故人の遺族、友人等故人を知る者が行う、すぐれて個人的な行為である。国からの祭人名票の送付という行為によって初めて祭神を特定する靖國神社による戦死者の合祀は戦死者を悼むためでなく、靖國神社自身のためのものだと言わざるを得ない。

靖国神社の聖戦史観と完全に重なる安倍晋史観

2014年5月シンガポールでひらかれたアジア安全保障会議(シャングリア・ダイアローグ)で基調講演した安倍首相は「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、“積極的平和主義”のバナーを掲げたい…自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を追求する一本の道を日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代、変わらず歩んでいきます。この点、本日はお集まりのすべての皆さまに一点、曇りもなくご理解願いたい」と述べた。

一体どこの国の話だと唖然とするが、この歴史認識は、近・現代における日本の戦争はすべて正しい戦争であったとする靖國神社の「聖戦史観」と完全に重なる。

2018(平成30)年12月13日発行の『別冊正論』33号は、「靖國神社創立150年 英霊と天皇御親拝」と題する特集を掲載しているが、そこに安倍首相が「政治家安倍晋三として靖国神社を考える」という一文を寄稿している。同寄稿の中で安倍首相は以下のように語る。

「乃木神社や東郷神社という軍神を祀っている神社がありますけれども、(靖國神社は)そことは違って本当に一兵卒あるいは国のために命を捧げた多くの一般の名もなき人々すべてが『亡くなったら神様になる』という極めて素朴な信仰によって祀られています。」

また、遺族が靖国を参拝する理由として、以下の様にも語る。

「一つは靖國神社に行くと、もしかしたら魂と触れ合えるかもしれないということだと思うんです。(中略)もう一つは、靖国神社に行くことによって、自分の夫や息子は国のために戦って、この国の繁栄のために命を落としたからこうして祀ってもらっているということを実感する、国から名誉を与えられている、国民から名誉を与えられているということを実感する。これも大きい」。 何が「大きい」のだろうか。安倍晋三の頭の中には、戦後、新憲法下で否定されたはずの「名誉の戦死」が息づいている。

【注】
 同じ日、安倍首相と田原総一郎との面談の際のことである。田原から「いよいよ憲法改正ですね」と水を向けられ、安倍首相が、「大きな声では言えませんが、改憲する必要はなくなったんです。」と答え、日本が「集団的自衛権を行使出来ないから日米同盟がうまくいかない」と米国が不満を示していたが、2015年9月19日集団的自衛権行使容認する安保関連法が成立したことによって「米国は何も言わなくなった。満足したのだ」と解説した(2017年10月12日付毎日新聞)。集団的自衛権行使容認の閣議決定・安保法制によって9条改憲が事実上実現したことを自認している。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

フォーラム平和・人権・環境」は、毎年8月15日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で「戦争犠牲者追悼、平和を誓う8・15集会」を行っている。

集会準備中に、武道館での「全国戦没者追悼式」の前に安倍首相が、SPを引き連れて、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にやって来るのに遭遇する。

彼は非業無念の死を強いられた死者達に何と語りかけるのだろうか。

先のアジア・太平洋戦争について、微塵の反省の念もない安部首相には、非業無念の死を強いられた死者たちの眠る千鳥ヶ淵戦没者霊園は似つかわしくない。

安倍首相には、日本の近・現代におけるすべての戦争は正しい戦争であったする「聖戦史観」に立つ靖國神社こそが似つかわしい。

前記「平和を誓う8・15集会」で私は、主催者代表、立憲民主党代表、社会民主党代表、立憲フォーラム代表ら共に「戦争をさせない1000人委員会事務局長」として参加し、以下のように追悼の言葉を述べた

戦後74年8月15日

今年もまた、8月15日がやって来ました。

2019年8月15日、戦後74回目の8月15日です。

今、世間では、天皇代替わりにより令和元年という云い方もなされています。

しかし、私たちは、2019(戦後74)年8月15日にこだわり、非業・無念の死を強いられた方々の声に耳を傾け、この国の来し方行く末を考えてゆきたいと思っております。

74年前の敗戦を経て、私たちは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、主権在民、戦争の放棄、基本的人権の尊重を原理とする日本国憲法を制定し、戦後の再出発をしました。この日本国憲法は未完の憲法であると言われています。

未完とは、戦後、私たちが担ってきた護憲、平和運動が、戦争責任の追及・植民地支配の清算、米軍基地の重圧に呻吟する沖縄について十分に向き合わず、今日に至るまでこれらの問題が解決されないまま放置されてきたことを云います。

私たちは、この二つの問題に取り組み、解決を図ることによって未完の日本国憲法を補完しなければなりません。

皆様方も憂慮されていることと思いますが、今、隣国韓国との関係は、元徴用工問題に関する韓国大法院判決を巡って悪化の一途をたどっています。

安倍政権は、韓国について、国家間の合意を反故にした、ちゃぶ台返しだと、口を極めて非難していますが、1965年の日韓請求権協定では日本側の拒否によって植民地支配の清算問題は封印され、その意味では、そもそも、ちゃぶ台に載っておりませんでした。この事実を直視すれば、元徴用工問題について、安倍政権の云う、国家間の合意とは別な解決もあり得るのではないでしょうか。

元徴用工問題は、加害者としての私たち日本が、慎みと節度を持って植民地支配の問題に向きあい、誠意を以って解決する以外ありません。同質の中国人強制連行・強制労働問題では、数社ではありますが、被害者と加害者との間で和解が成立しており、この事例を参考にすれば、韓国人元徴用工問題についても、同様な解決を為すことが可能であると思います。

安倍政権は沖縄県民の反対を無視し、辺野古米軍新基地建設を強行しています。ここでもまた国家間の合意が強調されています。しかし、辺野古米軍新基地建設についても、「日米は合意しても沖縄は合意していない」のです。数度に亘って表明された「辺野古米軍新基地建設ノー」の沖縄県民の意思がそのことを明らかにしています。「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」。かつて、砂川闘争で語られた言葉です。その砂川闘争に米軍基地に呻吟する沖縄県民の代表団の姿もありました。

土砂によって沖縄県民の米軍新基地建設反対の声を埋め立てることは出来ません。

憲法破壊をし、米軍と一体となって、再び日本を戦争出来る国にしようとする安倍政権に対する闘いは、三つの共闘です。一つは非業無念の死を強いられた皆様方、そして戦後の護憲平和運動を担いながら、亡くなっていった方々の声に耳を傾けながらの死者達との共闘、二つ目は戦争をしない国を私たちの子供、孫、まだ生まれて来ていない子供達に伝えるための、未来との共闘、そして三つ目が、各地で強権政治に抗しているアジアの人々との共闘です。

平和運動は、例えて見ればゴールのない駅伝のようなものです。各々がその託された期間を走り続け、次の世代に平和のタスキを手渡す、ゴールにたどり着ける人は稀、いやゴールそのもののない永久の連続運動だと思います。私たちは皆様方死者から託された平和のタスキを次の世代に手渡すまで走り続けます。

2019(戦後74)年8月15日
戦争をさせない1000人委員会事務局長
内田雅敏

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